宋元代江西撫州におけるある一族の生存戦略

 

 

青木 敦(大阪大学)

 

はじめに

 鄱陽湖を核とし、主に贛江、撫河、信江、修河、饒河の五大河の水系からなる江西は、宋元時代(一〇〜一三世紀)には行政区分としては、江南西路、江西等処行中書省などと称された。江西はこの時期、華北における女真や蒙古の南下、長江下流域での開発進展から、急速に開発が進んだが、家族・宗族といった血縁に基づく集団に着目したときにも、二つの方面で際立った特色を見せる。一つは族結合の要となる族譜の譜序が、この江西でもっとも多く残されていること、もう一つは、大家族の一形態として記される義門が、江西においてもっとも目立つということである。前者に関しては、森田憲司氏が各路に関して宋元の族譜の譜序を調べられた際、表1に示されるように、江西のものが突出して多いことを示された[1]。氏も指摘するように、崇仁の呉澄(一二四九〜一三三三)と臨川の虞集(一二七二〜一三四八)という、同じく江西撫州の二人の名儒の手になる譜序が多く残されていることもあるが、それを差し引いてもこの突出は変わらないという。清代には、江西の宗族の特徴として、族産が薄かったにも係わらず、宗譜編纂が盛んであったという点も指摘されている[2]。また後者の義門に関しても、著名な江州義門陳氏をはじめ[3]、江西には他所に比して断然多くの義門が知られている[4]。なぜ江西において、宗族、義門といった集合的な血縁組織の発達が目立ったのか。その背景を明らかにするためには、経済特に人口動態、経営や土地所有と家族制度、王朝の開発政策など、総合的な視点が必要になるが、本稿では、宗族組織の持つ社会経済的な機能の一端を明らかにすることを目的として、江西の一事例を取り上げたい。具体的に具体的に

1. 

宋元時代における譜序の地域分布

(森田1978

 

4

1

5

2

18

西

1

1

4

2

27

西

6

73

湖南北

2

2

2

2

14

その他

10

4

24

19

186

 

 

 

 

 

は、上記の呉澄と虞集の著述によって分厚い記録が残されている撫州の中の、宜黄(および崇仁)楽氏という一族である。楽氏は、『太平寰宇記』の編者、北宋初期の楽史(九三〇〜一〇〇七)によって史上に名を見せる撫州の著名な一族であるが、宗族の維持発展という観点からすれば、宋代においては決して成功したとは言い難い。宋初の楽史以降四代、一一世紀の初めまで、相継いで進士を輩出したが、その後いったん歴史の舞台から姿を消し、一三世紀に再び様々な史料に登場するようになってからは、戸絶による資産没官や、限田法による官戸認定取り消しの危機、史料を残した士大夫たちのどことない冷たい視線などにさらされる。この一一〜一三世紀の不明期間を経た後の楽氏は、族産設置、族譜編集、血縁組織の維持(戸絶回避)など、宗族活動に明らかに不熱心であり、同時期より活発な宗族活動が看取される蘇州范氏や、吉州欧陽氏といった名族とは対照的である。そこで本稿では、この楽氏の事例を追うことによって、宗族の組織化を怠った場合に蒙る様々な不利益を検討し、そこから逆に、宗族の確立という戦略が社会経済的に持っていたメリットが如何なるものであるのかを、考察したい。

なお、本稿でも見るように、楽氏は宜黄県、崇仁県など撫州中西南部において、明代以降も一定の地位を保っていたようであり、決して生存に全面的に失敗したわけではない。現在においても江西省の崇仁県には、同省金谿県などと並んで楽姓の人々が多く暮らしており[5]、そこにこの宋元の宜黄楽氏の末裔も含まれるとすれば、むしろ繁栄著しいという見方もできる。つまり楽氏は、宗族結合の強化とは別の生存戦略を選択したのであって、科挙を目指し、史料を残したエリート士大夫たちとは異なった形で、集団を維持していたに過ぎない。

 

第一節 宋元代撫州の経済景況と名族

 

(一)撫州概観

 

撫州は、長江中流諸地域の中にあっては比較的早く開発が進んだ。その後嶺南への大動脈となる贛水と平行して流れる汝水により、長江・鄱陽湖からのアクセスが良く、特に臨川は三国呉太平二(二五七)年、その後も江西を意味する「預章」郡の東部を分けて臨川郡が立てられ[6]、江西東部の中心となった。 五代から宋代には、長江下流域の開発が完了に近づくにつれ[7]、江西が、両浙、福建、湖南などとともに[8]、開発の最前線となった。江西についてはこの人口増のみならず、法文化、非漢族との緊密な関係[9]、政治上の特殊な地位もあげられよう。

 特にこの政治上の位置について言えば、北宋中期ことに哲宗、神宗以降、南人が多く宰相となった。さらに南宋になると、特に両浙・江東西・福建出身者が多く政権を握っていることからも、宋の政治体制全体において、両浙・江東西・福建の重要性は小さくなかった[10]

 こうした開発前線の江西のなかも、撫州は、太平興国における後述の楽史の科挙合格を皮切りとして、科挙官僚を急激に多く輩出するようになった。特に臨川は真宗、仁宗、神宗期からの撫州出身宰相としては、陳彭年、晏殊、王安石などが出ている。また福建建陽の学者たちから「江西人」と呼ばれた江西の思想家の中心人物陸九淵も、撫州金谿人である。こうした撫州の地位は、江西の中でも吉州、袁州、贛州などとは微妙に異なる。これら諸州が例えば裁判における健訟・訟学の深刻さに象徴されるように、まさに王朝政治のフロンティアであったのとは異なり、撫州は王朝政治にコミットしようとする士人たちに対して、ある種の吸引力を持っていたように思われる[11]。だが、撫州の中でも、開発・挙業に少なからぬ差はある。現在の九江付近から 南に広がる鄱陽湖の南端から、直線距離で五〇キロもない撫河沿いの臨川と、更に支流を三〇〜四〇キロ遡った宜黄や崇仁では、開発の進度に差があることは間違いなく、戸口数、科挙合格者数においても、臨川は抜出ている[12]。本稿の主な舞台となるのは、この臨川から崇仁にまたがる一帯である。

 

(二)撫州の名族と楽氏

 

宋代の撫州については、ロバート・ハイムズ氏が詳細な検討を加えており、エリートファミリーについて多くの具体事例が示されている[13]。特に、隣接する建昌郡の一部を含めた「大撫州」地域の八二家族それぞれについての徹底した史料収集を行っており、北宋から南宋にかけて、様々な新興のエリート家族がこの地域に現れてきたことなどを明らかにされている。ただ氏自身も指摘しているように、それは記録が存在しているということであり、そのエリート家族が実際に繁栄しているか否かは、個別事例に即して考察しなければならない。そこで本節では、撫州に名だたる名族とはどういった家であるのか、登科記、地方志、文集に書かれた撫州の名族に即して輪郭を描きつつ、その中での楽氏の地位について指摘したい。

さて、撫州の名族として、如上のハイムズは八二家族を挙げているが、例えば弘治『撫州府志』〓の宋元の「名宦」を見ると、晏殊を筆頭に王安石、王安国、王安礼、曽鞏、曽肇、晏敦復、李浩、何異、羅点と続き、元代にはひとり、虞集が載せられている。虞集を除き、いずれも宋朝の大臣として著名な人々である。これは、実際に『宋史』などで確認できる撫州出身の宰執たちと、そうかわらない[14]。明一統志で墓が記されているのは、羅隱、楽史、呉澄、虞集の四者だけである[15]。南宋周必大の「撫州登科題序」には、

『臨川図志』には「題名記」一巻が載せられており、太平興国五年の楽史より淳熈七年に至るまでの姓名が記されている。……二百年の間、もっとも名声が高いのは晏殊、王安石、曽鞏であり、楽氏・曽氏・王氏は父子兄弟相次いで科挙に合格し、謝逸やその弟薖といった名士は曾孫に至るまで黄甲に預かり、云々、

以下、汪革、羅点などへの言及がある[16]。周必大の見方では、撫州において傑出した大臣とは晏殊、王安石、曽鞏であり、代々の科挙合格では晏氏ではなく楽氏が入る。また、ここに名士と挙げられ、江西詩派の詩人として知られるその謝逸自身、撫州には「晏元獻・王文公が出ており、人々は讀書を楽しみ文詞を好む」と晏殊、王安石を代表として挙げる[17]。このように、南宋周必大の晏、王、曽氏を撫州出身者の出世頭筆頭とする見方は最大公約数的と言えるが、北宋初期に相次いで擢科されたにもかかわらず、その後大臣を出さなかった楽氏に関しては、実は扱いが微妙なのである。言うまでもなく、学者によって、個々の名族に対する見方は異なる。事実として晏、王、曽氏らが北宋を代表する撫州出身大臣であり、また楽氏が挙業に成功していたことも共通認識だが、その後振るわなかった楽氏に対する評価には、人により差異が生ずる。これを、元に仕えともに撫州人で親交のあった、呉澄と虞集の記述を通して考察したい。

まず、時代は前後するが、楽氏に対して厳しい記述を残している、虞集から見てみたい。『元史』一八一に伝の立つ虞集は、南宋初期の名臣、四川隆州の虞允文の五世の孫であったが、「宋が滅亡すると、臨川崇仁に僑居し、呉澄と交友した。呉澄はその文を清にして醇とたたえた」(同伝)と、元の世になって以降、撫州に移ってきた。そしてその地の多くの宗族の族譜に序などを書いているが、それらは『道園学古録』、『道園遺稿』に主に見える。また若干、『道園学古録』などに見られないものが『国朝文類』に見出されることがある[18]。そこには、修譜への評価が見られるが、逆に熱心な修譜を怠った楽氏への否定的な姿勢も見えるところから、以下、少し彼が撫州宗族の修譜に如何なる考えを持っていたかを、見てみたい。

虞集が晏殊の晏氏の族譜に寄せた序において、撫州以外の者を含め、宋代の若干の名族の修譜に関するコメントをしている[19]。しっかりとした族譜を編纂しようとする晏氏を褒める文脈において、他と比較することになるので、おのずと評価は辛口となるが、まず、北宋の呂公著・韓g・富弼・司馬光・桐木韓家(韓緯を筆頭とする韓億一家の門)は、南渡以後は記録がほとんどないという。曽氏の子孫は泉南(福建方面)に渡った、(虞集と親しい)甫田の陳旅も北宋に仕官した先祖まではたどれない、楽史の子孫は多いが、族譜は見たことがない、王安石一族は金陵に移ってしまった、(神宗期以降活躍した)王珪の子孫は撫州に任官したが、いまひとつさえない、桐木韓家の譜を見てはみたが、臨川に住む子孫は韓元吉を自らの祖としているようだ、と各族について述べる。結論的には、古い家柄の子孫も、数世代後の盛衰は分からないということであるが、この中でただひとり、臨川出身であり、現在なお臨川に子孫が多い楽氏については、「臨川郡の大族、楽侍郎史の後人、尚お多きも、而して未だ嘗て其の譜を見ず」、と族譜すら見たことがないと言う。この点には注目しておきたい。また修譜行為について、金谿県に墨荘劉氏[20]という名家の族譜に寄せた跋文で、虞集は、

  宋代の臨川の世家といえば、楽史、そして晏殊・王安石の二丞相の家に及ぶものはなく、最も地位が高い。南渡の後、李浩、陸九淵、そして羅点、李劉といった家は皆名族であり、道徳・学問・文学・政治に卓越している。他の郎官や卿監以下に至っては更に多いが、元朝に服属してからはや七〇年、かつての名族も、或は栄え、或は衰え、また族譜も或はあり、或はない[21]

と、楽氏を初めとする宋の名族のうち、譜を残さず、または衰え去ったものも少なくないことを述べる。そして曽鞏を出した南豊曽氏の子孫、曽衍から族譜の跋文の依頼を受けた虞集は、慎重な編纂態度を表明した曽肇(曽鞏の弟)の北宋元豊七(一〇八四)年の族譜の叙を読み感嘆し、ひるがえって、みだりに名族賢者を引いて仮託し、誣祖・不孝を行う編纂態度を嘆いて見せた[22]。続いて三〇〇年に至る曽氏の堅実な修譜姿勢に敬意を表しつつ、臨川の現状を語る。

  臨川の地方志を見たが、宋初には楽史、晏殊、王安石の家があった。楽氏の子孫は尚お多く、晏氏もまたそうだ。しかし王氏の子孫は金陵に分居してしまい、子孫は少なくなってしまった。南城も南豊も独立して州になり、金谿に住む者〔曽氏〕は、また臨川の大族となり、盛んになったのである。

こうして見ると、虞集は、曽氏、晏氏の修譜の実績を評価する一方、譜を残していない楽氏などへの評価は低い。臨川の名士として挙げられる楽史、晏殊、王安石、李浩、陸九淵、羅点、李劉のうち、大思想家である陸九淵を除くと、楽史、李劉が、宰執クラスには至っていない。李劉については南宋おそく、子孫が元に至ってからも活躍し、虞集も「李梅亭續類藁序」(『道園学古録』三三)を表すなど親交があったようである。総じて虞集は、元豊より修譜を怠らなかった曾氏などを高く評価する一方、族譜が目に触れなかった楽氏や、元代にはあまり振るわず、僧などを出していた晏氏には、冷淡である。

一方、ともに元代を代表する大儒、臨川呉澄は、虞集とは異なり、既に七世の先祖の頃に洪州豊城県から崇仁県に移ってきた[23]。『三礼考註』(六四)、『礼記纂言』(三六)、『春秋纂言』(一二)、『呉草廬先生文選』(六)『道徳真経註』(四)をはじめ(カッコ内は巻数)、礼、易、経から道家に至る相当量の注釈書等を残しており、現存する著作の量は、戴表元や黄溍はもちろん、元代では呉澄と双璧をなすといわれる許衡に勝るとも劣らない。その文集『臨川呉文正公集』(以下『呉文正集』)四九巻の巻一八には[24]、多くの族譜の序が採録されており、特に撫州の宗族のものとして、楽安の・・龔・劉、金谿のケ・呉、崇仁の曽・呉、宜黄の呉・曹諸氏のもが見える。ところで、呉澄は、

唐代、臨川郡を改めて撫州としたが、その疆域は広く、洪・吉・贛州に次ぎ、文物の声明は江西第一である。宋三百年間、栄えた儒臣としては、楽・曽・王・蔡・晏の五姓が首であり、官位を極めたものとしては王・曽・晏がトップであり、楽・蔡が之れに次ぐ。科挙合格で言えば曽・蔡・晏がトップで、王・楽が之れに次ぐ[25]

と言う。楽とは楽氏、曽は曽鞏を出した南豊羅山曽氏、王は王安石の臨川王氏、蔡は吏部員外郎蔡居厚の蔡氏[26]、晏は晏殊の臨川晏氏を指す。つまり、これらの諸名族の中で、族譜への序文を呉澄が著しているのは、羅山曽氏のみであり[27]、他はない。既に述べたように、蔡氏や晏氏はこの当時既に栄えておらず、また王氏は他へ移った。

ところが、呉澄の場合は、楽氏に全く冷淡であった虞集とは異なり、多少楽氏関係の記事が見られる。次に述べるように楽史の末裔楽晟や楽淵、弟子楽順をはじめ、寿、諒齊、徳順など宜黄楽氏の名を伝え、特に楽順は呉澄の弟子であった[28]。しかも虞集が「後人尚お多きも、而して未だ嘗て其の譜を見ず」と述べているにもかかわらず、呉澄の文集には楽氏族譜の跋文が見られるのである。咸淳末に楽史一八世孫楽淵が、呉澄とともに礼部に薦名されているところから、「撫州登科記は、宋初は楽氏より始まる……〔宋から元へと〕時代は革っても楽氏の子孫の福沢はたえない。盛徳は必ず百世代祀られるというのももっともだ」[29]などと述べられている。つまり淵のころには何らかの修譜を行っていたと見られるが、先の虞集の楽氏の譜を見ずという記述が、虞集が盛んに譜序を著した晩年の一三四〇年代とすれば、呉澄の跋より一五年は後のものであり、楽氏の族譜は、結局完成しなかったか、あるいはこの間に廃れてしまった可能性が高い。また「送楽晟遠遊序」では、呉澄は楽氏を「諸子諸孫、科名は相継ぎ、宋末に及び」「一姓文儒の盛」であると評価しているが[30]、現実には後述のように、確認できる進士は一三世紀中葉の甫、誼二人であり、過大評価である。呉澄がともに薦名されたという楽淵のみならず、呉澄は楽順なるものを弟子としており[31]、呉澄と楽氏との関係は深かったと想像される。

 撫州の名家について、呉澄は虞集や後代の『撫州府志』の記述と比較して、李浩の李氏、羅点の羅氏などを加えていない。楽氏は含まれるが、官位、科挙合格では下位に位置づけられており、やはり「宋代撫州の名家」中ではあっても、扱いは低い。楽氏の場合、宋初の四代が非常に華々しく、官位・科挙合格に対する評価は、彼らに負うている。族譜跋文についても、少なくとも採録された姿としてはきわめて簡単である点が目を引く。

このように、虞集と呉澄で楽氏の認識が少しく異なる背景については推測に頼るしかない。例えば、呉澄の弟子、楽順が、一三二〇年代に青田書院において重刻された『陸象山語録』を携えて京師に上ったとの記述もあり[32]、学派的な関係もあったかもしれない。だがやはり、六、七世代に渡ってこの地に居を構え、楽淵ら地元の楽氏との結びつきを保っていた[33]呉澄と、一代でこの地に渡り、地元の名族を相手に族譜の序などを書いていた虞集とでは、おのずと楽氏への距離が異なるのであろう。

 

 

 

2節 宜黄楽氏の軌跡

 

 撫州の楽氏については、これまで殆ど研究されてきたことがなかった。一九八〇年代の半ばに明版『名公書判清明集』(以下、『清明集』)が齎されてから、これと『黄氏日抄』の一部を用いて、梅原郁氏がこの楽史の末裔について取り上げられた[34]。形勢官戸について『清明集』から新たな知見を示されており、本稿も官戸の実態については梅原論文と見解を同じくするが、楽氏関係については簡略なので、ここで改めてその軌跡を追ってみたい。

 

(一)宋初

 

楽史は太平興国五(九八〇)年、撫州崇仁県羅山の南、後の青雲郷[35]から江西で初めて科挙に合格し、「破荒登科之人」[36]と称された。彼の伝は、弘治『撫州府志』二一人物などに詳しく、子に黄裳[37]、黄目[38]・黄中・黄庭がおり[39]、淳化三(九九二)、咸平元(九九八)年に進士、史の孫の代(排行は国字)、曾孫の代まで順調に進士を輩出[40]してゆく。楽史から四代下までの進士輩出は、決して少なくない数である。ところが楽滋の世代以降、南宋中期に至るまで、約二〇〇年、貢挙はおろか、その他いかなる方面においても、後述の陳元晋のわずかな伝聞を除いて、ほとんど活躍の記録がなくなるのである。

 

(二)南宋中期

 

 南宋中期より元にかけて、再び楽史の末裔は、記録に現れる。しかし、理宗の紹定五(一二三二)年に宜黄から進士及第した楽史一一世の孫、楽甫を除けば、他は惨憺たる状況で、例えば楽家と往来のあった嘉定四(一二一一)年進士、崇仁県陳元晋の「楽大章墓誌銘」には、以下のような事実が記されている。すなわち、大章の曽祖父韶武、祖父倫、父光国はみな仕官せず、四人の息子もみな早死にしてしまった。大章も淳煕一三(一一八六)年より国子学に待補国学弟子員となったが、翌年の科挙に失敗し、ばかばかしくなったのか、即刻勉強を放棄してしまった[41]。以降の楽氏の事跡は、百年後に呉澄が若干好意的な目で書き留めたのを除けば、まことに見苦しいものとなる。ただこの記事で着目すべきことは、「崇寧大観(一一〇二〜一〇)に、陳・楽の二家は蓄財で鳴らしたと長老が言っている」といっている点である。この消息不明の約二〇〇年のあいだ、一二世紀初頭には、崇仁県付近で蓄財に成功していたと見られるのである。

なお、楽氏は楽史以来、宜黄楽氏とされているが、陳元晋が「楽姓も、国初の楽侍郎(楽史)以下、様々に枝分かれして詳細がわからなくなってしまったが、崇仁県に籍のあるものはみなその末裔だ」と述べるように、崇仁県にも多くいたようで、崇仁楽氏とされることもある[42]。崇仁が場から県に昇格したのは楽史擢科の一〇年前に過ぎず[43]、楽史や楽黄目は崇仁県枠で受験したのかもしれないが[44]、そもそも楽史自身、崇仁県青雲郷を故郷とし、崇仁県に住み[45]、またその墓も青雲郷にあり[46]、崇仁か宜黄かの区別ははっきりしなかったようである。『續資治通鑑長編』(以下『長編』)、『直齋書録解題』[47]などで宜黄楽史と記されており、後代もほぼこれに倣う。光緒『江西通史』(東文研)によれば、嘉靖二(一五二三)年、林廷[〓木昴]が編んだ『江西省志』では楽史を崇仁人としていたが、康煕五九(一七二〇)年増修の『西江志』でこれが宜黄人に改められたという[48]。もともと、宜黄県と崇仁県は隣同士で三〇`と離れておらず、宜黄楽氏の一族が崇仁にいたことは不思議ではないが、崇仁楽氏とまで呼ばれたのには、あるいは次に述べる崇仁県の頴秀郷という郷における楽氏の大規模な田産所有と関わるかも知れない。以下、『清明集』における、楽氏の一連の限田法関連の事例では、彼らが頴秀郷に官戸として所有していた土地をめぐる案件を概観してみよう。

 

(三)南宋末期『清明集』所載事例

 

 頴秀郷の諸事件を手がけたのは、『清明集』名公の中でも、極めて法治主義的、証拠主義的な裁判手法が目立つ、范応鈴である[49]。崇仁県に属するこの郷の成立過程[50]、および撫州全体への人口流入[51]から言って、頴秀郷はおそらく南宋初期に急速に開発が進んだものと想像される。もともと臨川県に属しており、県城から遠くなかった頴秀郷や恵安郷について范応鈴は、「頴秀郷は計七都あるが、県城からはたった一五里で、在城の寄産でないものはなく、すべて官名によって登記されており、編民は皆無である」[52]、「恵安・頴秀二郷は県城から一〇〜二〇里で、全ての田業が官を冒称する城中の寄産で、うち一〇余都はこの二〇〜三〇年というもの差役ができず、たまに税銭が一〇〇文に満たない小民がいると、戸長に当てられそれは悲惨な目にあう」[53]と述べ、大半が在城の官戸への寄産によって官戸として登録されほとんど差役を当てられない実態を伝えている[54]

この頴秀郷には一二二〇年代ころ、紹興以前の慶遠軍承宣使の官位によって立戸している王氏[55]、紹興年間に官位を有していた劉氏(劉知府)[56]がいた。范応鈴はこの王承宣戸の王鉅に対して、告敕があっても砧基簿上の記載や分関簿書(家産分割の記録)がなくては、子孫が何人いてどれだけの限田が許されるか計算できない、としてその主張を退けている[57]。実際に范応鈴が王承宣戸、劉知府戸などを役に当てようとしたとき、彼らが持ち出すのは古い告敕であった。「頴秀郷では、告敕があれば適宜官戸となして照免している」[58]といわれるから、この地域の慣習であったのかもしれない。しかし、子孫減半の法が存在するからには、古い告敕では現代までに何代経ているか分からず、重要になるのは家産分割書となってくる。范応鈴のこの頴秀郷での判語で、同様に公印なしの分関書や六〇年以上前の従義郎の告敕などだけで官戸として免役を図った戸を、法律に基づいて役にあてるべく決定しているものもある[59]法律を重んじる范応鈴の一連の判断では、過去に官僚を出した一族は官戸と言えないことはないが、分関書や砧基簿で代々の家産分割が跡付けられなければ、告敕のみでは限田法に基づく免役適用は難しいという見解が示され、乾道敕[60]などの限田法を厳しく適用して、既成事実を認めない姿勢が見られる。なお、場所、著者は分からないが、「告敕があっても分書がなければ、限田の法は適用困難だ」と題された判語もあり、宗枝図や古い尚書の告敕を持ってきて主張する兪嗣古・嗣先に対し、この著者は「尚書の子孫で代々蔭を承け、告敕もそろっているから官戸といえないことは無い、朝散郎(七品)の子なら子孫減半の法で一〇頃以内なら許されるが、これが一〇〇年以上前の宣和年間のものではどうしようもない」、とその訴えを退けている[61]

楽氏は、こうした頴秀の官戸の一つであった。楽侍郎戸も、三〇〇年以上前の楽史侍郎によって立戸し、役を免れ続けてきた[62]。しかし范応鈴は、「楽侍郎戸は、税銭が一貫七二二文あるというのに、告敕も砧基簿もなく証明しようがない。国初の楽侍郎の子孫が分かれて今何人くらいいるのか、各人に許される限田がどれだけかもわからず、省簿内の税銭が楽侍郎宅の不動産か否かもわからない」[63]と、楽氏を役に当てるべきだと断じた。

恐らくは、国初の楽史以来、北宋南宋を通じて多くの族人が官戸として立戸し、役を逃れ続けてきたものと思われる。さらに楽氏が、楽侍郎の贍墳田を、侍郎と関係の深い崇仁の東林寺・安原寺・鍾山寺に寄託して免役を図っている実態も、范応鈴によって記されている[64]先の陳元晋の「国初の侍郎以来、支派がバラバラになり詳しく分からない」とする楽氏への批判もこれと同じ頃のものであり、当時崇仁県で、一向に進士も出さずに、楽史の後裔を称していた大人数の楽氏が、すでにその祖の楽史とのつながりが曖昧になっていたことが知られる。

 

(四)南宋末期『黄氏日抄』所載事例

 

 再び楽氏が登場するのは、これより約三〇年後の黄震『黄氏日抄』中の記載である[65]。これについても梅原氏は既に一部を簡略に紹介されているが、実は複雑な案件であって、その主眼は戸絶の危機に瀕した楽誼の立継および財産分割に関する黄震の決定である。詳細をここで述べると煩瑣になるので、別図「宜黄楽氏関係図」を適宜参照されたいが、この問題の本質は、厳しい和糴政策の圧迫を受ける中で、如何に立継して戸絶という最悪の事態を回避しつつ、利害の絡む多くの親類縁者に遺産を再配分し、かつ王朝の和糴政策にも相応の対応を行うか、という困難なバランスを取ることにあった。

 簡単に述べるなら、景定三(一二六二)年進士で南城県尉までつとめた楽誼には、子がなかった。銭氏という女の赤ん坊を引き取ったが二歳で死んでしまった。また、聖という名の幹人徐順の娘を引き取り、妙聖と改名してこよなく愛していたが、嫁に行ってしまった。誼にも嘗ては妻がいたが、江東の饒運幹なる者のところに逃げられてしまった。天涯孤独となった誼は戸絶の危機に瀕し、その財産を巡って親族から下僕まで大きな騒ぎとなってついに知撫州であった黄震のところに訴えが来たのである。

 当時、撫州などでは没官田は軍餉にあて、和糴に供するなどの方策が行われていた[66]。例えば撫州には、三鄒荘・阿鄭荘・譚湖荘などの没官田があって、軍需に給されており、さらに黄震は咸淳末年(一二七二〜三年=ほぼ虞集の生年にあたる)、ある宗教団体を摘発し、白蓮堂なる田産を没収して和糴荘となしたほどである[67]。だから本来であれば州としては、楽誼の家は戸絶とし、全て没官して和糴等に供する選択もあったかもしれないが、「法では戸絶は没官あるのみだが、これが撫州初の進士で、江西に未だ欧陽脩・曽鞏が出なかった時期から文学で名をなした楽史の後裔であることを念い」[68]、楽氏の宗支を自ら調べて、死亡した小主簿を除き、同世代の十官人、十一官人の子の中から、長男や無学の染物店経営者を除き、何とか読み書きが出来るという二五歳の甥の文炳を世嗣にあてた。南宋に通用していた戸絶財産継承の法律[69]を適用して、実質命継たる文炳に与えるべき額を楽誼の資産の三分の一である二万貫と計算し、残りを全て没官することはせず、思い入れの強かった妙聖に一万貫、楽誼と戸を同じくしていた十一官人の息子囦に五千貫などを配分したが(図参照)、水次荘なる田産は和糴荘とし、一部財産は没官して本州の和糴の助となし、立継・均給・没官の三側面のバランスを取った裁決を下した、というのがこの一連の史料の記すところである。

この一件から言えることは、結局楽氏最後の進士であった楽誼すら、血縁の中からしかるべきもの―本来、同宗昭穆相当―を立継できず、命継も戸絶財産の分配も、すべて黄震の主導によってなされていることである。わざわざ知州が家系図をたどって命継を立てている事実からは、楽氏が家を超えた宗族の組織的な活動を行い得なかったことが伺われる。もうひとつ、既に北宋末までに蓄財で名をなしていたというだけのことはあって、資産が六万貫以上、水次荘も撫州の和糴が潤うほどであったから、楽氏の資産規模は相当なものであったといわざるを得ない。

 

 

 

第三節 王朝の財政政策と修譜・収族

 

 南唐末期に生を享け、撫州から初の進士となり、未だ王安石も欧陽脩も出る前の、フロンティア江西のホープだった楽史だが、四代ほど進士を出し続けた一〇〜一一世紀前半から、忽然と記録から姿を消す。そして一二世紀初頭には、崇仁県で蓄財に成功していたとの断片的な記述があり、一三世紀に入ると、殆ど無官の楽史の子孫なるものが、崇仁県でしばしば問題を起こす。そしてその一連の問題は、限田、和糴と、その時々の宋朝の財政政策に深く関わることが見て取れるし、そしてさらに、彼らがこれに対してうまく立ち回ってこなかったことも印象的である。

 まず限田について考えてみたい。宋朝は当初から、品官の家の役は免じてきた[70]。しかし実際は長く戸を分かたず、高祖が戸をなしている場合もあったし[71]編戸がこれに寄産して役を逃れようとする弊害もあり、役を免ぜられる官戸の条件を具体的に確定しようとする限田免役法が提案されはじめたのが、神宗〜仁宗期である[72]。しかし当初は実現せず、その後徽宗期になってやっと本格的に立法化が進んだ。北宋末の政和令を経て、南宋期特に孝宗乾道年間には限田関係の立法が徹底して行われた。官品による限田額が定められ、その子孫は親の半分の限田額しか許さない子孫減半の法が立てられ、さらに子が多く限田の合計額が大きくなりすぎるケースへの対策も講じられた。だが現実には、上記にも述べたように、多くが官戸である城居地主に寄産し、限田法による差役の公平化は難しく、これが後の公田法へとつながってゆくのである。

既に述べたように、楽氏の場合、有官者はもちろん、国初の楽史侍郎だけではない。曾孫の楽滋は著作左郎にまでは出世している。また、官人となるのは何も進士だけが道ではなく、三班使臣などから、地方の小官に入り込む道は少なからずあった。『黄氏日抄』に見える十官人、十一官人、小主簿といった人々もいるし、問題となった陳元晋や范応鈴の時代以前の楽氏にも、そういった者が皆無だったとも、いささか考えにくい。それでも断固として、告敕すら残っていない三〇〇年前国初の侍郎の官位を用いて省簿に官戸として立戸していたのは、限田法が実行力を持たず、「凡そ祖宗朝に官品を有したものは、みなこれを官戸といい、みなこれによって役を免れてしまう」[73]という当時の行政の現実が存在したからであり、それであればこそ、直近の族人の地方官ポストではなく、楽侍郎の官位を用いて官戸となるのが、限田額からしても一番得であったからだろう。

 しかし王朝は、遠い祖先の官位により官戸として免役が既成事実化した戸を、実際に家産分割が行われてきた過程に基づいて計算しなおし、限田枠から外し、役に付けようとした。范応鈴が赴任するまで楽氏が官戸であり続けた事実、度重なる限田立法とその後の公田法へ至る過程からすれば、こうした王朝の努力は功を奏していたとは考えにくいが、それでも法に基づいて免役を廃止しようとしたとき、実際に品官の官僚を出していなければ、免役に与ることは難しくなる。王朝の限田政策に対応し、免役特権を享受し、寄産による大土地所有を続けられる方法があるとすれば、それはできれば官僚を輩出し、分関書も含めて宗支の関係を明確にするしかなかった。その面でも、族譜を整備し、宗族組織を確立することは必須だった黄震が自ら楽氏の宗支を調べて甥の世代にあたる文炳を探したのは、残された楽氏の人々が、宗の関係を整理して対処できなかったことを暗示する。戸絶すらすばやく処理できないようでは、宗の富が流出してしまうだけのことである。黄震や上記兪嗣古の事例以外にも、福建の事例でやはり限田問題に関して宗枝図を書いて宗族関係を検討する例があるが[74]、こうした場合に、作成に少なからぬコストをかけてでも、社会的に認知された族譜があれば、宗族の成員にとって相当有利に働いたに違いない。だが呉澄や虞集の文集に見る限り、楽氏はかかる努力を怠っていたように見受けられる。楽氏とは対照的に、和糴政策厳しいこの時期に(嘉煕四(一二四〇)年)、范氏義荘は風化の関わる所として、科糴免除の特権にまで、与っているのである[75]

 その後の楽氏については、既に見たように、弟子楽順を初め、一四世紀に呉澄の文集によって伝えられる数名が確認できる。その他崇仁の地方志に楽姓の人名を探すと、慶元元(一一九五)年から咸淳九(一二七三)年にかけて、数人の楽姓の殿試合格者、明代には県学の教諭の名などが見える[76]何喬新『椒邱文集』には、弘治六(一四九三)年に没した余倫なる人物が、楽史の末裔の宜黄の楽氏を娶っていることが記されており[77]、この時期になお、楽氏が崇仁においてそれなりの社会的地位を維持していたことをうかがわせる。そして現在なお、宜黄に楽姓が多いことを考え合わせると、彼らは血族の存続に於いて、決して失敗していたわけではない。しかし、以降の楽氏は、宜黄、崇仁に根を下ろしつつも、再び高級官僚として花咲くことはなかった。宜黄の県志によれば、楽子正公義庄(子正は楽史の字)なるものの記述があり、楽史が数千畝の義田を設置したが、子孫は他に徙ってしまい、荒れ果てて税も取れないので、官が没入してその地を「楽家庄」と名づけた、などとある[78]。それ以上の詳細は不明であるが、楽史の後裔が義田を絶えず拡充していったということはなかったようである。楽氏は、曽氏や蘇州范氏、吉州欧陽氏のような科挙戦略を取らず、楽滋以降記録の失われた約二〇〇年間のいつからか―恐らく、陳元晋が伝えるように北宋末には―大土地所有戦略に特化して行った。しかしながら、限田、和糴といった、厳しい財政締め付けに対応せねばならなかったとき、一族から出た官僚との関係を明示し、また戸絶の危機に瀕し、財産に政府の手が伸びようとしたときに、対処に限界があった。さらに陳元晋、范応鈴、黄震、虞集といった、史料の世界のエリートたちは、宋初の楽史に敬意を払いつつも、しばしば目前にいる楽氏に対しては、厳しい認識を示した。呉澄との関係をいささかの例外とすれば、挙業とともに士大夫との人間関係を良好に保つ面でも、楽氏は努力を怠っていた。彼らは宗族組織の確立、士大夫社会との関係維持ではなく、土地所有・蓄財に邁進していたようである。楽氏の族裔が、移住することもなく、その後も長く宜黄・崇仁に存続し続けたことから考えれば、楽氏の取った生存戦略も、決して誤りだったとは言うことはできない。むしろ、南豊曽氏のように、移住を繰り返す宗族のほうが、宗族結合の強化を必要としたであろう。だが、そのことによって、楽氏がいろいろ不利益を蒙っていたのは、事実である。

 

おわりに

 

 宋朝という王朝は、矢継ぎ早に法律を繰り出し、細かい民事的利害調整までをも制度と法により行おうとしたが、特に江西という地域では、法律が盛んに用いられた。制度を重視した撫州臨川の王安石自身、こうした環境から出た人であり、法律・客観性重視の裁判官の代表者である范応鈴も、崇仁の隣県、隆興府豊城出身で江西湖南を中心に実務を担ってきた。そうした社会で、官戸としての特権を維持していくためには、限田法や戸絶没官に対抗できるだけの宗族の組織化が必要だったに違いない。もちろん、宋元時期の江西において族譜編纂の記録が多いことの背景については、第一には開発・移住と宗族との関係から考察して行かなければならない[79]。ただ一一世紀における宗族組織強化の急速な展開については[80]、宗族を様々な政治的文化的要因、例えば王朝政府との関係において見て行く視点も必要ではあるまいか。一一世紀中葉といえば、王朝がこの官戸の特権を問題視し始めた時期である。既得権益を失う危険を素早く察知したエリートたちが、王朝側からのチャレンジを乗り切ろうとしたとき、族譜序文への謝礼等、相応のコストを支払ってでも、宗に基づいて自らを組織化することが、対応方法の一つに含まれた可能性は否定できない。だが一方、こうした宗族組織化戦略を取らなかったグループも存在したであろう。楽氏はその一事例であり、その結果、官戸の無制限な既得権益を認めない王朝政府から圧迫を受け、また士大夫社会の中で、必ずしも高い地位を与えられなかった。しかし、動産・不動産の蓄財においては郷里に雄となり、特に頴秀郷では、編戸はないと言われたほどの官戸による大土地所有の一角を担って、曲がりなりにも後世にその姓を残してゆく。本稿は事例研究でありただちに結論を一般化はできないが、北宋中期に確固たる宗族組織を築かず、エリート士大夫社会とは距離を持ったまま蓄財に専念したのも、それはそれで一つの選択であった。

 

 

 

 

 



 

[1] 森田憲司「宋元時代における修譜」『東洋史研究』三七−四、一九七九参照。

[2] 族産が薄く、族譜が発達しているなど清代〜民国における江西の宗族の特質については、華東軍政委員会や毛沢東による調査を参照した許華安「試析清代江西宗族的結構与功能特点」『中国社会経済史研究』一九九三−一がある。

[3] 江州陳氏については佐立靖彦「唐宋変革期における江南東西路の土地所有と土地政策――義門の成長を手がかりに」『唐宋変革の地域的研究』同朋社、一九九〇、許懐林「財産共有制家族的形成与演變―以宋代江州義門陳氏、撫州義門陸氏為例」(上・中・下)『大陸雜誌』九七−二、三、四(一九九八)参照。

[4] 佐竹靖彦『唐宋變革の地域的研究』同朋舎出版、一九九〇では、『永楽大典』三五二八「義門」の宋元部分、『宋史』四五六孝義列伝から地域分布を取り、路別で江西が二位の江東の倍以上で一位であることを示されている。また黎小龍「義門大家庭的分布与宗族文化的區域特特徴」『歴史研究』一九九八−二。

[5] 竇学田編撰『中華古今姓氏辞典』警察教育出版社、一九九七、七〇〇頁に楽姓を説明して、比較的よく見られる漢族の姓であって、現在では北京、天津の武清(県)、山西の太原市、陝西の韓城、湖北の武昌・監利両県、江西の金渓と崇仁両県、広東の新会、雲南の隴川などに分布している、と言う。筆者は現地を踏査したことはまだない。

[6] 『三国志』四八孫亮「二年春二月甲寅,……豫章東部為臨川郡」。

[7] 斯波義信『宋代江南経済史の研究』東洋文化研究所、一九八八、一三九頁。

[8] Robert M. Hartwell.“Demographic, political, and social transformations of China,

 750-1550". Harvard Journal of Asiatic Studies, 42:2, 1982, p.395

[9] 青木敦「健訟の地域的イメージ―1113世紀江西の法文化をめぐって」『社会経済史学』六五−三、一九九九、同「南宋女子分法再考」『中国−社会と文化』一八、二〇〇三参照。

[10]周藤吉之『宋代官僚制と大土地所有』社会構成史大糸八、一九五〇、二九頁。

[11] 後出『呉文正集』一八「雲蓋郷董氏族譜序」。『文忠集』五四「撫州登科題序」にも「大江之南、分東西両道、自東而西、首曰撫州。其為郡、在三国孫氏至隋唐、雖易置不常、然今建昌軍治南城統南豊入閩為邵武軍、本皆撫之属邑、非特地大人庶、冠冕一路而文物盛、多亦異他邦」という。

[12] Robert P. Hymes, Statesmen and gentlemen : the elite of Fu-chou, Chiang-hsi, in northern and southern Sung. Cambridge University Press,1986、二五一頁前後。表3のあたり。

[13] Hymes前掲論文、Apendix1 (二二〇〜二四七頁)および諸名族が記録に現れる期間を示した表1(六三頁)。

[14] 周藤前掲書の膨大な出身地別の宰執表によれば、撫州出身の宰執として,晏殊、王安石、王安礼、羅点が挙げられている。本文虞集の見方との比較で言えば、李浩は明州扱い、北宋の名臣として名高い曽鞏、曽肇も、官位は宰執に達していない。

[15] 『明一統志』五四「撫州府」陵墓。

[16] 『文忠集』五四「撫州登科題序」「本朝最重儒科、『臨川図志』載「題名記」一巻、起太平興国五年、楽史而下至淳熈七年、姓名具焉。……言其顕顕者、晏元献公之進賢好善、王文公之文学行誼、曽子固鞏之主盟斯文、此一身所当勉也。楽氏、曽氏、王氏、父子兄弟相継策名、此一家所当勉也」。

[17] 『溪堂集』七「臨川集詠序」「臨川在江西……、有晏元献・王文公之為郷人、故其党楽読書而好文詞」。この序文は大観四(一一一〇)年、曽鞏兄弟が仕官していたのはこの直前であり、晏、王両氏と並べられていない。

[18] 族譜関連の文章の多くは康煕『西江志』、雍正『江西通志』などにも採録されている。版本としては四部叢刊の『道園学古録』あるいは元人文集珍本叢刊『道園遺稿』がよく、康煕『西江志』、雍正『江西通志』にはそれらとは字句の異同が往々にしてあり、四庫全書所収の『道園学古録』はむしろ通志に近い。

[19] 『道園学古録』三二「臨川晏氏家譜序」「故宋盛時、若呂申公・韓魏公・富鄭公・曽魯公・司馬温公・桐木韓家、子孫南渡後仕宦、功業猶可攷見、内附以来邈乎、無所聞於四方。聞曽氏有子孫、在泉南。数十年前、北方曽氏、有仕於南臺者、至泉南、以世嗣求拝其家廟者。慶歴従官、莆田陳氏之裔孫旅、為余云而、今亦不可考矣。及余帰僑、臨川郡之大族、楽侍郎史、後人尚多、而未嘗見其譜。王荊公子孫、四十年前在金陵、嘗見一二人、今祠下亦有一二人耳。而晏氏之子孫、莫盛於尚書八世之後、乃有去為釈氏若師吉者。……又聞、王岐公子孫、有官撫州而留居者、其孫卒於外孫李氏家。又得桐木韓氏之譜、於其諸孫之留居臨川者、南澗公為之序者也。故家之子孫、数世之後、雖隆替不可知、予於晏氏之譜有不勝感歎者矣」

[20] 南宋の名臣劉清之の五世の祖劉式が死後数千巻の書物を残し、それを夫人陳氏が伝え、以来このコレクションは墨荘の名で知られるようになった。劉清之自身も『墨荘総録』を残している。その子孫が虞集の時代に臨江軍清江から金谿に来たと思われる。

[21] 『道園学古録』四〇「跋劉墨荘世譜」「故宋臨川世家、莫如楽侍郎、晏・王二丞相家、最貴重。南渡後、如橘園李侍郎、青田陸先生、及崇仁羅春伯樞密、月湖何同叔尚書、梅亭李公父[]中書、皆著姓、而有道コ行藝、文学政事、卓卓可[一作有]述者。及他郎官・卿監以下、尚多有之。内附国朝、将七十年。喬木故家、或著或微、其譜或存或否」

[22] 『道園学古録』四〇「跋曾氏世譜後」「南豊曾氏之族……命其子衍、以南豊金谿曾氏世譜示集。受而読之、作而歎曰、「善夫、文昭公元豊七年所為族譜叙也」。文昭之言曰、「家伝旧世系、以為温彦博・高士廉所撰、而有不敢信者、経唐末五代之乱。又有不可考者、自其身追尋先集之遺、至其郷石記鐘銘之属、得其六世之名。諱猶有不能尽知者」。蓋慎之至也。……世之人、曾不知古人之意、妄引名族賢者、而自附焉、覬以自表、而不知誣祖之罪、其為不孝甚大、而其官爵年代参錯、舛誤徒貽識者之笑歎。……集嘗観于臨川之乗、自宋初有黄門楽侍郎、晏元献公、王荊公之家。楽之子孫尚多。晏亦有之。而王氏之後、分居金陵、其後人特少、南城自為郡、南豊又為州、其居金谿者、復為臨川之大族」。

[23] 危素『臨川呉文正公年譜』。

[24] 呉澄の文集は、明の宣徳に編まれた『臨川呉文正公集』百巻附外集五巻があり、四庫全書の『呉文正集』はこれによっているが、成化二〇年の同題の四九巻外集三巻が流布しており、本稿はこれによる。百巻本よりも四九巻本では一巻の量が多く、四九巻本の巻一八のうち、族譜の序は百巻本の巻三二にあたり、後半の送序は百巻本の巻三三となる。

[25] 『呉文正集』一八「雲蓋郷董氏族譜序」「唐、改臨川郡為撫州、疆域之広、亜於洪吉贛、而文物声明、甲於大江以南之西。宋三百年間、一家一族儒宦之盛、楽・曽・王・蔡・晏五姓為首、称爵位之崇、王・曽・晏最、楽・蔡次之、科名之稠、曽・蔡・晏最、王・楽次之」

[26] 咸平三(一〇〇〇)年進士の蔡為、姪の宗晏、その弟宗賀、宗晏の子元導、その子、承禧(煕寧に御史)と代々撫州から進士を輩出し、承禧の子が『宋史』三五六に伝のある蔡居厚。元導の弟元翰には「唐制舉科目図」(『文献通考』一九八経籍考)。弘治『撫州府志』二一人物「蔡元導」「蔡承禧」、乾隆『江西通志』八〇人物に引く嘉靖『江西省志』「蔡元導」など。

[27] 『呉文正集』一八「羅山曽氏族譜序」

[28]『呉文正集』から、楽諒斉(八「答楽諒斉書」)、宜黄の楽寿(二三「拙逸斎廬記」)、鄒明善に嫁いだ楽徳順(二五「仙原観記」)の名、また以下の注参照。

[29] 『呉文正集』二八「跋楽氏族譜」「『撫州登科記』、宋初自楽氏始。少保公十八世孫淵、咸淳末、与余同薦名于礼部。嗚呼、古人以与国咸休為期、今時代已革、而楽氏子孫福澤猶未艾、所謂盛徳必百世祀、詎不信然

[30]『呉文正集』一六「送楽晟遠遊序」「吾郷侍郎楽公『寰宇記』一書……侍郎生於唐之後、顕於宋之初、在『撫州登科記』中、褒然為首。諸子諸孫、科名相継、施及宋末、貢舉者猶不絶、一姓文儒之盛。其吾郷之表表者与、晟字幼誠、亦其苗裔也」。

[31]『呉文正集』八「与元復初書」「宜黄楽順、吾門学者、好読易」。『呉文正集』一五には「贈楽順徳成序」もある。明示されていないが、宜黄の楽順が楽史の末裔であることに間違いあるまい。

[32] 『元文類』三四「陸象山語録序」(澂)「至治癸亥、金谿学者洪琳、重刻于青田書院。楽順携至京師、請識其成」。

[33] 前出の楽淵以外に、蛇足かも知れぬが、曽鞏も記を寄せる雲峯院には(『元豊類藁』一七「分寧県雲峯院記」)、呉澄も「雲峯院経蔵記」(四庫全書『呉文正集』四九。成化『呉文正集』に見えず)などの記を寄せている。それによれば雲峯院については宋初の楽黄j(排行から楽史の子の世代?)が譔記を残しており、呉澄の当時も楽氏の族裔たちが僧となっているという。

[34] 梅原郁「宋代の形勢と官戸」『東方学報』〈京都大学人文科学研究所〉六〇、一九八八。

[35] 呉澄『呉文正集』二五「上方観記」「羅山之陽、宋初時、侍郎楽公父子兄弟、接踵擢科。故名其郷曰青雲」。

[36] 黄震『黄氏日抄』七八「楽県尉絶戸業助和糶榜」。

[37] 「黄目兄黄裳,弟黄庭,黄裳孫滋,並進士及第。黄裳、黄庭皆至太常博士」(『宋史』三〇六同伝)。兄弟関係については弘治『撫州府志』二一人物、同治『宜黄県志』二五「選挙」など。

[38] 著に『学海搜竒録』六〇巻(『宋史』二〇七)。

[39] 排行からして前出の楽黄jも同世代と思われる。

[40]『河南先生文集』一五「故夫人黄氏墓誌銘」の記事と総合すれば、黄裳の子許国はその妻黄氏と河南へ徙り、河南楽氏として栄え、その四子のうち、天聖八(一〇三〇)年宜黄で進士となり著作左郎に至った滋の他、早卒した浚以外、永・冲とも進士に及第しているというが、滋以外は確認できない。楽甫や楽誼については弘治『撫州府志』一八科題。

[41] 陳元晋『漁墅類稿』六「致政司法楽公墓誌銘」「公諱大章字聖錫。姓楽氏、其先自国初侍郎公史而下、支派四出分合、莫得而詳、而籍崇仁者、皆其裔也。曽大父韶武、大父倫、父光国、皆不仕、娶ケ氏、封孺人先公、一年卒、子男四、如珪、如愚、如玉、如川、孟仲皆早世。……時聞、長老言、崇観間、陳楽二家、以財雄、歳時冠、蓋往来甚昵、交契蓋有、自来而余弟婦則楽出也。故与公交忘年銘焉、得辭公少志進取読書過眼輒成誦。淳熙丙午、待補国学弟子員、明年試不偶、即日棄筆」。

[42]『清明集』三「贍墳田無免之例」(范応鈴、以下、范「贍墳田」)では、楽史が崇仁楽侍郎と称される。

[43] 『宋史』八八地理志「江南西路」「開寶三年,升宜場為県」。

[44] 地方志の科題では、楽氏の合格者は宜黄と記される。

[45] 同治『宜黄県志』一−七「地理志」化龍池、『明一統志』五四「撫州府 山川」

[46] 『明一統志』五四「撫州府  陵墓」

[47] 『長編』二一太平興国五年閏三月甲寅条、『直斎書録解題』八の太平寰宇記の項

[48] 江西通志』八〇人物

[49] 范応鈴の裁判手法については、青木前掲論文、およびAoki Atsushi ”Sung Legal Culture : An Analysis of the Application of Laws by Judges in the Ch'ing-Ming Chi". Acta Asiatica, 84, 2003

[50] 清代まで永続するこの頴秀郷の地は、もともと臨川県に属していたが、明の呉与弼『康斎集』九「豊安程氏族譜序」に「臨川の豊安市、紹興中に頴秀・恵安の二郷を割し、崇仁に隷せしむ。而して豊安の崇仁に属するは、即ち今の西舘市なり」とあって、紹興年間中に崇仁県に属することとなったようである。

[51] Hymes前掲書図1によると、撫州の人口は宋代を通じて増加し続けるが、一三世紀前半から定常化に向かう。

[52] 『清明集』三「限田論官品」(范応鈴、以下、范「限田」)「照対本県穎秀一郷,共計七都,相去城闉纔十五里,無非在城寄産,省簿立戸,並有官称,無一編民。

[53] 『清明集』三「提舉再判下乞照限田免役状」(范応鈴、以下、范「提挙再判」)「照対本県恵安、穎秀両郷,原係臨川,續行撥隸,去城纔一、二十里,所有田業,無非城中寄産,各冒官称。其内十餘都,自二、三十年間,無可差之役。間有小民,税纔満百,勒充戸長,役満而税与之亡,其禍惨甚。以故小民或有丘角之田,争相求售,無敢存留,否則必官戸之幹人,或其宗族親戚,並縁假借,以図影占」。

[54] 官戸の城居について梁庚尭「南宋官戸与士人的城居」『新史学』一−二、一九九〇。

[55] 『清明集』三「須憑簿開析産銭分暁」(范応鈴、以下、范「開析産銭」)「王鉅到県,亦齎出慶遠承軍宣使告敕呈験,非不明白。若論限田,合照免,然承宣乃紹興已前人物,即不見得承宣之後今有幾位, 限田合占若干,儻非砧基簿書開析分暁,難以照使。……若穎秀一郷凡有告敕便作官戸照免,役法不可得而行,版籍不可得而正」。『清明集』三「使州判下王鉅状」(范応鈴)「照対王鉅初状,元準台判,齎到慶遠軍承宣告敕呈訖,送県,照依限田法行,已於十月十六日回申訖。王承宣係在紹興已前,若無分関簿書,不見得自今見有幾位,合限田若干。……今二十三都乃是王承宣贍墳荘,豈得謂別無田産,更将承宣告敕影占行使,若無分関簿書,実難照応。況本都省簿並是城中寄居産業,無非立為官戸,尤難一例免差」

[56] 范「提挙再判」、范「限田」では分関干照もなく、紹興年間の告敕のみで免役を図った劉知府に対し、影占を認めていない。紙幅の関係で挙げられないが、范応鈴はこれらの判語でしばしば、限田に関する法令を用いて免役を制限しようとしている。

[57] 范「開析産銭」および『清明集』三「使州判下王鉅状」(范応鈴)。

[58] 范「開析産銭」「若穎秀一郷凡有告敕便作官戸照免,役法不可得而行」。

[59] 清明集』三「白関難憑」、(范西堂、頴秀郷)「準役之法,応官戸免役,並要於分書前該載某官占限田之数,今是幾代,合得若干,子孫以至曾、玄各要開析。如分書不曾該載,並不理為官戸」この判決対象の劉儒宗が、范「限田」などに見える劉知府のことであるのか否かは、不明。

[60]范「限田」「儻執一告,便可立戸,纔頓一戸,便可免役,是族人之有官品,同宗皆可影占,父祖之有限田,子孫皆可互使,朝廷役法,何所適従。准乾道八年六月二十六日敕、品官限田,照応原立限田格條,減半与免差役,其死亡之後,承蔭之人許用生前曾任官品格,与減半置田。如子孫分析,不以戸数多寡,通計不許過減半数」。この事実は、過去に官僚を出し、一旦、「理して官戸と為す」との扱いを受け、省簿において官戸と分類されれば、それが取り消されることは難しかった現実を示している。范応鈴のような積極的な人物が現われでもしない限り、一度高官につけば、その官品によって、子孫に至るまで免役の特権に与るのが現実だったのであろう。

[61] 『清明集』三「有告敕無分書難用限田之法」(以下、「有告敕」)」「嗣古、嗣先係是尚書之後,累世承蔭,皆有告敕可考,不得謂之非官戸。……凡祖宗朝會有官品者,皆可謂之官戸,皆可用之以免役,法遂可廃」

[62] 范「提挙再判」「如楽侍郎一戸,即名史者,生於南唐,仕於国初,越今幾三百年,猶以侍郎立戸,以侍郎免役,此本戸之産,猶有可言」。

[63]范「贍墳田」「拖照省簿,楽侍有税銭一貫七百七十二文,並無告敕、砧基簿書,可以稽考。崇仁楽侍郎生於南唐,仕於国初,今不見得子孫分作幾位,毎位合占限田若干,仍省簿内税銭是与不是楽侍郎宅産業」。

[64]  范「贍墳田」「雖據賚出官司文牓,係楽侍郎撥作贍墳田産,毎年付安原、東林、鍾山三寺主管,然律之設法,難以此免」(限田の事案)。同治『崇仁県志』二−四寺観「東林寺」に「本楽侍郎読書之所、既貴施田修寺」とあり、同「安源寺」(何異)に「施田楽弐卿読書」、同書九−六藝文志にも楽史の「読書鍾山寺訪処士陳叡二首」がある。元・何中の『知非堂稿』二「崇仁鍾山寺」に「宋楽史侍郎有詩在寺」と割注。

[65] 震『黄氏日抄』七八「楽県尉絶戸業助和糶榜」(以下、黄「楽絶戸」)、七五「申安撫司乞撥白蓮堂田産充和糴荘」(以下、黄「白蓮堂」)、七八「招糴免和糴榜」。紙幅の関係上原文省略。

[66] 周藤前掲書五六五頁

[67] 黄「白蓮堂

[68] 黄「楽絶戸」「在法、戸絶惟当没官。本州念楽氏乃侍郎名史之後、侍郎為撫州在国朝破荒登科之人、亦江西欧・曽諸老未出時、先以文学顕名本朝之人。……継絶之法、当以親論。拖詳楽宅宗支……」

[69] この法律については高橋芳郎「親を亡くした女たち―南宋期のいわゆる女子財産権について」『宋代中国の法制と社会』汲古書院、二〇〇二参照。この法律の適用事例は、圧倒的に江西が多い(青木前掲論文(二〇〇三))。

[70] 以下、限田法の概要については周藤前掲書一〇二〜三〇頁、曽我部静雄『宋代財政史』大安、一九六六、四四七頁〜、梅原前掲論文。

[71] 周藤前掲書一〇五頁。

[72] 前々注諸文献参考、また梅原前掲論文、影占徭役が顕在化し、限田法実施が考慮されるようになるなど、特に真宗末、仁宗初めに形勢戸が問題となりはじめたと指摘する。

[73] 前出「有告敕」参照。

[74] 『清明集』三「章都運台判」。現代語でも「宗支図」というが、『清明集』では「宗枝図」という言葉が使われる。意味は同じく、簡単な系図のようなものであろう。

[75] 清水盛光『中国族産制度攷』岩波書店、一九四九、周藤吉之『中國土地制度史研究』東京大学出版会一九五四、五四八頁、遠藤隆俊「宋末元初の范氏について−江南士人層の一類型」『史』七四、一九九〇。范氏以外に義荘の役を免除された事例は皆無ではないにせよ、宋代にはほとんど見られなかったようである。おそらく、当時の僅かな義荘の免役事例は、例えば累世義居への旌表門閭や、あるいは南宋に流行した割股に対する旌表など、儒教的価値から賞賛すべき行為を旌表するに際して褒美として税役が免除されたのと、本質的に大差はなく、宗族結合という行為自体を宋朝が特別視したということではなかろう。旌表門閭に税役上の優免を与えることについては、宋代では真宗時代にすでに明確にその方針を述べた敕が出されている(『長編』七二真宗大中祥符二年八月丙申「詔旌表門閭人、自今、二税外免其諸雜差役(按先朝、旌表人、即云二税外免其他役、不知何故今乃有是詔也。当考)」。

[76] 同治『崇仁県志』七−一「薦辟」、七−三「郷挙」。

[77] 何喬新『椒邱文集』三一「古余先生墓表」「時弘治六年二月七日也。娶宜黄楽氏、宋名臣史之裔。

[78] 同治『宜黄県志』七「古跡」「楽子正公羲庄(楽子正公父子以所得賜賚置義田数千畝、贍族人貧乏、歳久、子孫転徙他邑、義田荒廃、県官租税無出、悉没入之、名其地曰楽家庄)」

[79] 開発と宗族については、山田賢『移住民の秩序−清代四川地域社会史研究』名古屋大学出版会、一九九五など多くの文献があるが、海外にまで目を向けるなら、台湾史は最も豊富な成果を提供してくれる分野の一つである。例えば新竹の開発地主である客家の坪林范家に関しては、最近劉沢民『関西坪林范家古文書集』国史館台湾文献館、二〇〇三に網羅的な文献リストが載せられている。詳細は省くが、エスニシティも宗族組織化に深くかかわり、平埔族、福佬人(福建系)と比較し、客家に宗族形成が極めて顕著である事実が知られている。宋代の江西湖南に広汎な非漢民族社会があったことについて、岡田宏二『中国華南民族社会史研究』汲古書院,、一九九三掲載諸論文参照。

[80] 小林義広『欧陽脩−その生涯と宗族』創文社、二〇〇〇、三二四頁〜。

 

 

※本稿は平成一六年度文部省科学研究費助成の成果である。校勘、文献入手などで岩崎健一郎、浦川正輝・勝田尚孝、島田亜由子・砂田篤子、張谷源、真鍋佳代子諸氏の助力を仰いだ。本稿の元になった、二〇〇三年夏の宗族シンポジウムにおける筆者の発表に貴重な意見を寄せてくださった方々に深謝したい。なお、未だに筆者は撫州を訪れ、楽史の後裔の方々に採訪したことはなく、その意味で本稿は不完全なものである。楽氏の方々から、宋元代の楽氏に関する新たな資料を示していただくことが出来れば、内容の訂正に吝かではない。

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